写真提供: (C)2007『明日への遺言』製作委員会:アスミック・エース


■はじめに / 岡田資陸軍中将のこと

岡田資中将                       岡田中将の遺稿



太平洋戦争末期の昭和二十年の名古屋、米軍機の爆撃によって多くの一般市民が犠牲になった。平成20年3月1日から全国ロードショーが始まった映画『明日への遺言』(小泉堯史監督 主演・藤田まこと、富司純子ほか)は、この空爆の際、撃墜した米軍兵士を処刑した責任を問われ、B級戦犯として絞首刑になった第十三方面軍司令官、兼東海軍管区司令官・岡田資(たすく)中将の法廷での戦いとスガモプリズン房舎で法華信仰と信念で最後まで若者を励まし続けた姿を描いている作品である。
 一般市民に対する無差別爆撃をした兵士は、捕虜ではなく戦争犯罪人であるから処刑したと、自分の行為に言い訳も逃げもせず正々堂々と裁判で主張する岡田中将。すべては自分の命令であったと、部下をかばい、心穏やかに死刑台にのぼった、潔くいささかもひるむ事がなかった誇り高き一人の日本人の姿。

映画の中では岡田中将の法華信仰を表現する場面は少ないが、それでも岡田中将役の藤田まことさんが、座禅唱題
(現在は通常は端座してお題目を唱える形が一般的ですが岡田中将は座禅である)する場面や獄舎で若者たちとお自我偈(法華経16章・寿量品の重要最終ブロックの偈文で法華系の勤行には必ず唱えるお経)を唱える場面がある。また、法廷で人の心の十界互具・一念三千の教えでその時の自分の心と行動を説明しようとする場面がある。
そして、何よりもラストシーン、惜しくもお題目で送られて行く設定は一般化されて「故郷」の唱和になったが、最期に13階段入り口の扉の前で真言宗豊山派僧侶の田島隆純教誨師が
「では、お別れですね」と言うと、岡田中将は「なに、隣に行くようなもんですよ」と言って軽い足取りで死刑執行の階段へ歩み去る場面がある。これは田島隆純教誨師の回想録から小泉監督がイメージして脚本化していただいた台詞と思われるが、この映画でもっとも法華信者らしい岡田中将の姿を伝えている場面であろう。※
(※法華宗系の教えの多くは、命が尽きた者が赴くところは今生きている世界を離れること十万億土と表現されるような西方浄土等を思念しない。この世界がそのまま浄土となるべき、またするべき世界・常寂光土であり、寿命が尽きて今生を終えた者は彼方に去らず、再びこの世に生をうけ、修行をつづける。すなわち、役者が一幕終わって少しの間、舞台のソデに隠れて居なくなったように見えるが、またすぐに舞台に立つようなもの、己のいのちは長い期間にわたって生死を繰り返し利他行を行う道を進んでいく菩薩の修行のあらわれのひとつと思念する)

さて、岡田中将は、敗戦当時の状況について次のように書いている。

 「敗戦後の世相を見るに言語道断、何も彼も悪いことは皆敗戦国が負うのか? 何故、堂々と国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、また重大なる戦因なりし事を明らかにしようとしないのか。要人にして徒に勇気を欠きて死を急ぎ、或いは責任の存在を弁明するに汲々として、武人の嗜みを棄て生に執着する等、真に暗然たらしめらるるものがある」

 その主張と姿勢に共感した米人弁護士は共に戦い、遂には一旦死刑判決を下した検察官や裁判官までもが、多くの人々の減刑嘆願の動きに同調するようになりますが、判決は変わることなく刑は執行された。
 絞首刑・昭和二十四年九月十七日享年六十歳。
その日から僅か九ヶ月後に起こった朝鮮戦争をきっかけに東西冷戦は本格化し世界情勢の変化と共に、岡田中将の論戦によって死刑を免れ、すべて有期刑になっていたかつての部下の被告たちは次々と釈放され、各自その生命を全うした。
今回の映画「明日への遺言」の原作は作家・大岡昇平氏の『ながい旅』、そして小泉監督が15年間温め続けた脚本があった。そして原作執筆の資料の一つが岡田中将が、岡田中将が獄中で次代に託した遺稿集『毒箭』−巣鴨より若き世代に遺す−である。

財団では、制作委員会の要請により、各種歴史資料や撮影に使用する書籍、また仏教信者の所作や読経の指導などを行ったが、岡田中将の唯一の遺著『毒箭』の復刻の可能性を考え、著作権・版権などの整理資料を作成した。こうした経緯・映画への協力が縁で、ご遺族・岡田中将のご長男の岡田陽氏に会うことが出来、当時の遺稿刊行会代表・駒野教爾師の法嗣・駒野教洋師と出版経緯・事情を聞き、復刻協力を継続することができた。折しも、岡田陽氏と初めてお会いした時、氏は昭和32年に発行の同書再刊本(岡田中将の長女・達子さんのご夫君・藤本正雄氏が発行所になって、関係者に配布された/初版発行時はこの書の出版は当時の日本の置かれた状況から見ると何らかの障害も覚悟していたようであるが、31年頃は再刊も可能な状況であったと思われ、表紙も金・銀の箔押しの花草のデザインがほどこされている)の頁を切って、コピーして関係者に配ろうかと思っていたということだった。
映画完成後は法華系各宗・団体に映画への協力を呼びかけ、日蓮宗と顕本法華宗から「推薦」の栄誉ある評価を戴いた。何より、この映画を機縁に、ご遺族及び旧遺稿刊行会に連絡がつき、この岡田中将の遺著『毒箭』復刻の協力・広報を行えたことは千載一遇の機会といっても過言ではない。
映画は全国60万人の観客を集めたという。今後、この映画が解き放った先人の心が現代の日本にどのように広まるか、またその蒔いた種がいつ芽をふくかを見まもっていきたい。
映画ホームページ http://ashitahenoyuigon.jp

◆お知らせ◆
岡田中将が次代に宛てた遺著『毒箭』
(どくせん)50年振り、最後の復刻

   
 法廷で戦い、房舎で若者を励ます
 その心にはいつも純白の法華信仰があった
「私の代わりに若い諸君よ、元気に新時代に尽くせよ」

 紀伊国屋さんと楽天のショップ            
                隆文館 定価5500円     
紀伊国屋  楽天           撮影に貸し出した本多上人の著書
「本屋ネット」さんでも申し込めるようです


仏教書の老舗「山喜房仏書林」さん(東大赤門前)でも扱っていただいています。
是非、右のメールアイコンで山喜房さんへお申し込み下さい    


 さて、この映画の原作である『ながい旅』は昭和五十七年に刊行され話題を呼んだ。極東軍事法廷の公判以来三十年、戦後三十六年の時を経てアメリカ国立公文書館所蔵の公判記録が公開され、岡田中将の「法戦」の詳細が姿を現した。作品は中日新聞に連載され、翌年に単行本化された。折しも昭和五十六年は岡田中将の三十三回忌であった。
 そして、どうしても岡田中将を知る上で忘れてはならない書が、この『毒箭』である。岡田中将の次代に託した思いは本書無くして語ることが出来ないと言っても過言ではない。仏教信仰(法華経)をもとにしたものではあるが、仏教関係用語にさえ慣れれば、宗教・宗派を超えて岡田中将の平和・真実への思いが伝わってくる。
第1部はスガモプリズンでの若者との心の交流、所感などが随筆的に記されている(188頁まで)。第2部は自分が亡き後、部下たち、次代を担う私たちの人生・世界の理解のために綴った仏教の教理解説を試みたものであるが清書半ばで時間切れとなった、いわば未完の中心部(456頁まで)。第3部は証言台に立って思ったこと、遺族・関係者への手紙、裁判の記録などで構成された「法戦」の部である(497頁まで)。
これは岡田中将が自ら獄中で鉛筆をコンクリートの壁で削り便箋に書き遺した仏教に関する理解をまとめた遺著である。(スガモプリズンでは鉛筆と便箋は配給されても、それを削るナイフの所持は許されない)この書の発行者代表は駒野教爾師、発起人として掘日正師、湯川日淳師、久保田正文師、望月桓匡師、金子日威師(順不同)など日蓮宗の重鎮の諸上人、また協賛には大映社長の永田雅一氏、武見太郎氏なども名を連ねている。
発行は昭和二十九年、岡田中将の処刑は昭和二十四年九月で、遺稿の読解・整理に約五年の歳月を費やして、関係者に配布された。
 その序文に当時、立正大学学長であった久保田正文師は次のように書いている。

 「法華経は不思議な教典である。その深いこころを本当に会得できた人には、今までと全くちがった世界が開ける。(中略)この境地を、火も焼く能わず、水も漂わす能わずというのであろう。これが法華経の現世利益であり、霊験である。岡田資氏は、このような霊験を身をもって示された方である。部下の過失を一身に引き受け、戦犯という名の下に、遂に巣鴨で処刑せられたのであるが、心境は、平和、清純で、環境に左右されない白蓮華のそれであった。生死解脱とは、このような境地に名付けたものである。しかし、岡田氏においては、自分一身の解脱などは、問題ではなかった。人類の将来、世界の運命、日本と日本人とが、如何に成り行くであろうかという事が、死の毒箭を受けた氏の最大関心事であった。この崇高なる動機から生まれたのが本書である」

 そしてもう一つ、この『毒箭』には本多上人の日曜講演会の聴聞、法華信仰への道を開いた戸谷という顕本法華宗の僧侶との出会い、統一団主任講師・河合陟明氏への思いが綴られている。以下その要旨と関係する『統一』誌の記事を抜粋する。


 
 (写真:(C)2007『明日への遺言』製作委員会)


◆戸谷師との出会い
 大正八年の統一誌の記者評と岡田中将の『毒箭』の記述を並記して、戸谷という顕本法華宗の僧侶との出会いを見よう。

○『統一』大正八年七月号掲載記事 ※(この翌年、岡田中将は戸谷師と出会う)

[戸谷好雄というは顕本法華宗の僧侶である。僧階は低くても僧侶としては実に模範的の立派な人格者である。僧侶と云えば寺を連想するが、其の寺の飯は喰わない、九尺二間の裏長屋に一廓法城を築いて、人力車夫となって働く、余暇を作っては布教をする。労力で人を車に乗せ、心力では法華の大車に乗せる意気込は尊むべきものである。『江戸川の法華僧の辻説法』実に之は戸谷君が熱血の口輪に反響した評判であるのだ。頃日は家内中で手職を行る、そして半ヶ月働き食糧が出来たら半ヶ月は例の江戸川に立って辻演説に法華の幢幡を飜して居るのである。之こそ真に力の布教であろう。
 池沢日辰師は義侠的な気肌の人で、真面目な先輩僧である。戸谷君に法衣を贈られた、僧侶が僧侶に供養をする既に奇特である。而して之を僧侶から供養された戸谷君は実に名誉とせねばならぬ。かくて法華信者の誰彼が彼れに対して相当の保護を加え彼をして真に愉快に活動さするべく奇特者の現れんことを冀望するのである(略)統一誌 記者]


○岡田中将の『毒箭』第2部「法華経奉読の手引の冒頭 同書191頁

[予が曾て始めて法華経を通読したのは三十一歳の夏である。指導者は戸谷好雄(道)氏であった。大正九年の九月である。陸大一学年に学んでいたわれわれは牛込矢来に住んでいたので、夕食後の散歩は護国寺にいたる大通りを神田上水を渡る辺りまでその領域としていた。仲々人出の賑やかな夜店の多い時である。途中の辻に大抵の夜日蓮信行会の高張提灯をあげて説法陣を張っている人々がいた、ある日驟雨に襲われ露店を疊み群衆の右往左住している時に、この組許りは悠々として説法を続けている。但し聴者は唯二人、その一人はわれであった。説法者は前垂掛けの仕事着そのままかと見ゆる異様な風態である。説法の口調は平常の通りで何の変化もない。あたりの騒擾との対照が頗る面白いので頭の雨を気にしながら暫く聴く。人の気も全然なくなる。雨は止みそうもない。われは思い切って信行会のアドレスを聞き後日の訪問を予約して別れた。次の土曜日の夕、妻と共に四谷区瓢箪町高橋という家具屋さんの二階を訪れた。それが会長戸谷氏の仮寓であった。氏は房総半島の尖端に近き高滝村の小さい法華寺の住職であるが、月半分は上京して菩薩行をやっているのである。日中は車を挽き難儀な人を救ったり、行き倒れの人を連れ戻って世話して見たり、そして夜になると辻に出て日蓮主義を叫ぶ。十二年の震災の時には、六人の半島人を数日自宅の押入に庇い、あの狂的雰囲気から彼等を助けたのである、正に信行であろう。私共夫妻が訪ねると間もなく続々と来客がある、それも町家の連中ばかり、瓢箪屋・魚屋・鳥屋・籠屋等々のあんちゃん・おばさんばかり、そして一同とても元気はよいが空気は和やかなことだ。暫くするとこはいかに特大皿鉢に山盛にお萩が出されたではないか、その日は日蓮聖人龍の口法難の夕であったのである。お萩も甘かったが職業を異にする人々の信仰談や辻で救世軍との法論話は更に面白かった。それを御縁に戸谷氏とも往来したし、また日曜には浅草清島町の統一閣を訪ねて(本多)日生師の説法を聞いたりしたが、寸暇を与えぬ陸大の教育は遂に本格的に法華経を学ぶ機会を与えなかった、それでも学林文庫から(田中)智学居士の「宗門の維新」という名文を発見したときには大いに心を動かされて、短い休憩時間に学友との雑談を避けて机の蓋を頭に被り顔を突込んでそれを耽読した。あれは流石の高山樗牛を日蓮研究にかり立てただけのことある熱火の文であった。いまでも思い出して懐かしさに耐え得ない小冊子である。翌年の夏が来て七月に入ると陸大は半日となった。私は学校で中食をして四谷塩町津の上坂それから牛込柳町で市電を越し運動旁々徒歩で帰宅した。そこで随分不遠慮な思付きだが、途中瓢箪町によって戸谷氏からいよいよ法華経の概要を学ぶことになった。(略)戸谷氏の弟子に勇悍な籠屋のおばさんがいた。「先生も物好きだね、この夏の真盛りに岡田さん一人をつかまえて二時間もお講義とは」すると氏は「いや、あの人に一寸でも教えて置くことは将来いつか役立つ時が来るよ」と。これは後で聞いたことである。聞いた時には再びお手数かけて済まなかったと思い、そしてきっと氏のいわれた如く教の転々宣布を以て御恩に酬いましょうと決心した。いまその日を回想し、そして現在の獄中生活を観るとき私の誓いはお陰を以て貫徹したように思う。増上慢かも知れんが「われ仏の御受用をたまう」の自負に立つ。気は労するとも心は豊かである]


◆河合陟明氏との出会い
 河合先生は岡田中将と出会う昭和十年頃は護国寺近辺に住み、明治大学で教鞭を執るかたわら音羽の統一団で行われる講演などの主任講師をされていた。戦後、岡田中将が収監された時、河合先生は仏教書などを差し入れたが、折しも河合先生も皇道を宣揚したとの理由で教職を一時追われるなど苦難の中にあった。



河合先生と本多上人の「盟約書」/統一団協賛会設立の折/昭和4年3月
この2年後、本多上人は遷化、河合先生も病床に臥す日が多くなった。
昭和20年には戦災ですべてを焼失、旧顕本法華宗も戦前に合同した
合同日蓮宗から22年に、独立・日蓮宗残留・単立にわかれていた。


『毒箭』自序から抜粋
[私が真正面から、法華経の解読と取り組んだのは、大正九年の秋からである。陸軍大学一年生時代だ。当時その独学は実に難解なもの哉と思った。仏教関係書は濫読したけれども、範囲は期せずして法華経に関係したものに限られた。日曜日には教団の講演を聞き渉った。そして二年生の時念珠を常時ポケットに入れる事にして、所要の時機に用いたり、少くとも自ら行ずる心の戒とした。確か初の念珠は堀之内妙法寺の前から求めたと思う。大尉時代から少佐にかけて二ヶ年半倫敦駐在大使館附武官補佐官をつとめたが、この念珠は法華経や日蓮聖人御遺文集と共に渡欧の伴をしてくれた。けれども相済まぬ事ながら、着任二日目から、卓上電話を握ったり、毎日七種類の新聞と数種の月刊週間雑誌を拾い読みせなければならず、経典研究は遂に中止に等しき状態となったのである。陸大教官や、宮様に御仕えした間は、各々濫読時代に帰ったけれども、依然本式の指導者を得る機会には恵まれなかった。然るに故参中佐で教育総監部部員の時俄然法縁は熟して来たのか、河合日応(陟明)師を善知識に迎える事が出来るようになった。但し、遺憾ながら師を知ったのは、後一週間で朝鮮慶北大邱なる歩兵第八十聯隊長に転出するという際どい時であったのである。(中略)当時仏典には読めども観ずれども解き得ない教理上の根本疑問がある。それをそのまま半島に持ち越す事は、我が仏心が許さない。そこで初対面の日に河合師に事の次第を告げて、丸一日の御指導を乞うた。昭和十年二月末の日曜日、この新発意は小石川なる師の宅を訪ねた。この日の訪問と質問は、私の為には、真に背水の陣を布くものであった。到底今一日という余裕を持たぬのだから、さて始めから「仏とは何か」なんていう大問題から展開してかかったので、六時間許りぶっ通しの研究となった。両人共に煙草には縁がない、茶も飲まぬ、奥様の御好意の中食にも遂に箸をつけず、そして熱するがままに、障子は全部開放で、折柄の泡雪は、ちらりちらりと畳の上を飾った。そしてこの大精進行の間、得体の知れない一青年が、終始側に端座して、会心の談至れば、静かに無言で合掌する。後日師の手紙により、彼は相当ラジカルな闘士の転向者であった事を知った。なおその際、師に無遠慮な事ではあったが曼荼羅を御願いした。爾来それは戦場以外常に身に添えて離さなかった信仰対象となった]
(以上『毒箭』昭和二十九年五月初版本・『統一』誌より)




 本多上人の著書『法華経要義』

◆最後に

■岡田中将の家族への遺書の映画の台詞についての補足説明

 
映画の終盤、岡田中将の遺書の抜粋が台詞になっている場面があります。その場面は富司純子さんの声で「夫の遺書にはこう綴られていました『私は戒名なんて不要です。特に葬式法要は一切不要です』」という台詞があり、続いて藤田さんの声で妻への思いと励ましの言葉が語られます。試写会を観たお上人さんから、この台詞がなかったら最高なのにとの声もありました。大岡昇平氏の原作にはこの言葉に続いて「仏縁により今生を得て働かせてもらった…」とあり「こんな世に葬式法要一切不要です。お曼荼羅の前に写真や俗名を並べて呉れたら結構です」と続きます。
この遺書は『毒箭』の遺稿にも無いもので、大岡氏の取材中、銀行の貸金庫の財布の中から発見された、真に家族宛のものでした。岡田中将が家族にこう記した背景には、当時、戦犯処刑者の遺体も遺骨も家族のもとに帰らず、処分されてしまうという厳しい現実があります。また戦犯受刑者の慰霊も、GHQ側からは「戦犯者の精神・遺骨を奉じて軍国主義復活につながる要素」について、監視対象下にありました。自分の処刑後も死刑判決執行を控えて収監されている青年たちの命を救う、無期重労働など重い判決を受けた部下の減刑を実現させる意味でも、自分の死について大きく構えないで欲しい、自分は今も家族や青年たち、そして遺稿の中に生きている、という岡田中将の思い、そして髪や爪さえ遺さず逝く自分の境遇に家族が悲しまないで欲しいという心、そうした敗戦日本のおかれた境遇に思いを馳せていただきたいと思います。
もちろん今回の映画にはこうした台詞がない方がよかったかも知れませんが、もし疑問に感じた人がありましたら、そんな説明をしていただければ、岡田中将もご遺族も喜ぶことと思います。なお、岡田中将には『毒箭』発行後に駒野師が「一乗院蓮華荘厳日資大居士」の戒名をおくられ、岡田家のお仏壇には現在お曼荼羅とお位牌、そして平服の写真が安置されています。
 たとえ、英雄なりといえども、遺族に遺骨もなく「戦犯の家族」の名の負担をかけるつらさを思えば、遺族宛の遺書にこうした配慮があるあるのは立派なことだと思います。
 また、戒名についても、岡田中将は河合先生に師事したのならば当然、生前に授かるのが本義と知っていたと思います。ですが、岡田中将はやはり、死後に受戒作法を追修して出家したものとして生前の名前から戒名に変じる(かたち)には馴染めないものがあったようです。この形や宗派、宗教にこだわらない精神がスガモプリズンのあの極限状態の中で、あたかも法華経に説かれる地涌の菩薩のごときはたらきを顕した一つの要素であったように思います。


                   
岡田中将/長女の達子さんの婚礼披露宴の2次会の席でくつろいで微笑む
                    
                               (以上 平成20年3月7日更新)




          岡田中将遺稿・関連文献/秩父宮殿下への手紙

          岡田中将遺稿・関連文献/妻への遺言

          岡田中将遺稿・関連文献/坐禅唱題の記述

          岡田中将遺稿・関連文献/宗教と国境

          岡田中将遺稿・関連文献/戦略爆撃について

          岡田中将遺稿・関連文献/笹川氏宛絶筆

          関連文献/『久遠』所収・同室者楢崎正彦氏の回想/岡田中将最期のすがた



                                       



映画「明日への遺言」と岡田資中将の信仰